【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】 (2/6ページ)

Japaaan

只今可申切者……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条

御家人たちを奮い立たせた政子の演説

【意訳】政子は御家人たちを集め、安達景盛に示し含ませた。曰く
「皆の者、心一つに聞くがよい。これが最後の言葉である。かつて右大将家(源頼朝公)が朝敵を征伐して関東に武家政権を草創された。以来官位や俸禄について、山より高く海よりも深い恩義を受けたはずだ。よもや忘れなどまいの……時に上皇陛下は逆臣にそそのかされてスジ違いの綸旨を下されたが、坂東武者の名誉を忘れぬ者は一刻も早く藤原秀康(演:星智也)と三浦胤義(演:岸田タツヤ)らを討ち取り、源家三代の遺業をまっとうせよ。ただしそれでも院にお味方せんと申す者は、今すぐこの場で申し出て、この尼を斬り殺してゆけ!」と。

これを聞いた御家人たちは感涙にむせぶあまり、まともに返事も出来なかったといいます。むさ苦しい坂東武者たちが所狭しと密集しかつ号泣するさまは、さぞや凄まじい眺めだったことでしょう。

いざ合戦と決まれば早速軍議を開くのですが、それは又にして次は『承久軍物語』バージョンを見てみましょう。

一方、『承久軍物語』バージョンでは?

……去程に。御一門を初めとして。その名きこふる侍ひたちを二位どのヽ御まへにめして。今度の御大事のいけんをとはる。覺阿善信ら申ていはく。いかさまにも武士どもを差登せられ。官軍をせめほろぼさんにはしかじと申せば。二位殿も然るべしと領承し給。いかに侍どもたしかにきけ。日本國の侍は。むかしは三とせの大番とて。帝都を守護する事。

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