【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】 (4/6ページ)
右大将家(源頼朝公)は大番役の任期を三年から半年に短縮され、無理なく務めを果たせるよう取り計らって下さり、みな歓喜に沸き立ったものじゃ」
頼朝公の死から早20年が経っており、かつて京都大番役をはじめ各種の苦役が課せられ、犬馬の如く引き働かされたことなど体験していない世代が増えてきていたのです。
武士は地下人(ぢげにん)などと呼び蔑まれ、公家たちの家畜同然に扱われた記憶が残っている者は、当時を思い出して悔し涙を堪えたことでしょう。
「……しかし歳月は流れてそんなことも知らず、鎌倉殿の深き御恩を当たり前のことと思い上がっておる者は、此度の戦さで京方へ味方するのか。それとも坂東武者の誇りを守るため、鎌倉へご奉公するのか。今すぐこの場でハッキリ申せ!」
こうまで言われて「ハイ朝廷にお味方します」と言える坂東武者はいないでしょう。
「鳥や獣たちだって、人間が愛情をかければその恩を感じないことはない。まして人間の、しかも代々にわたり厚き御恩をいただいた我らが、木石と同じ(恩義を感じない)ということがあるはずもない。一命を賭して全力で戦い、異郷の地に討死を辞さぬことこそ、ただ一つの答えだ!」
こうして坂東武者たちの心は一つになり、いざ決戦に臨むのでした。
慈光寺本『承久記』に見る御家人たちの本音?……とは言うものの、いくら感激したところで、それだけで勝てるものではありません。
東山道から攻め上る大将となった武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)。同じく大将を務める従兄弟の小笠原長清(おがさわら ながきよ)とこんなやりとりをしていました。
……如何有ベキ武田殿。武田返事セラレケルハ、ヤ給ヘ小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方に付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ。小笠原殿トゾ申サレケル。去程ニ、相模守御文カキ、武田・小笠原殿、大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇國ヲ奉ラント書テ、飛脚ヲゾ付給フ。