承久の乱で言及される「九郎判官」とは何者?角田太郎胤親のエピソード【鎌倉殿の13人】 (2/4ページ)
【角田祖先系図】
……桓武天皇―葛原親王―平高望(高望王)―平良文(村岡五郎)―平忠頼(村岡次郎)ー平忠常(上総介)―平常将―平常長―平常晴―上総介常澄-相馬九郎常清-相馬介(上総介)貞常-角田太郎胤親……※中条家文書「桓武平氏諸流系図」
元服して通称は太郎。諱は親常(ちかつね)と言いましたが、後に千葉介常胤(演:岡本信人)の孫娘(父は千葉介胤正)を娶ったことで胤親と改名しました。
これは義祖父・常胤と頭文字がかぶってしまうことを遠慮したのだと考えられます。
美六と美八の仕えた「九郎判官」とは?さて、そんな角田太郎は承久の乱で奮戦し、みごとに武功を立てました。
……六月十四日宇治合戰討敵人々……角田太郎〔一人手討九郎判官郎等美六美八〕……
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月18日条
【意訳】6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々(中略)。
角田太郎、手討ち1名。ほか九郎判官の郎党である美六(びろく)と美八(びはち)。
(あるいは九郎判官の郎党である美六美八という人物のみ1名の戦果と解釈できなくもありません)
手討ちとは自分の手で(もちろん刀を用いて)敵の首級を挙げたこと。