斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

斎藤道三によって近代城郭として大改修されたといわれる岐阜城

信長にとっては、よき理解者であり後ろ盾だった道三の死は大きな痛手で、美濃から援軍が得られないまま今川義元と戦うことになります。

その後の消息は…?

そしてその後、濃姫は、斎藤家の菩提寺である常在寺に道三の肖像を寄進したのを最後に、記録上の消息が途絶えます。

彼女のその後については、主に四つの説があります。

まず一つ目が離縁説で、弘治2(1557)年に信長の側室・生駒吉乃が嫡男・信忠を懐妊した頃に離縁され、母の実家である明智城に送り返されたとする説です。

しかし、信長には離縁する理由が全くなく、この可能性は低いと考えられています。

次に、信長に嫁いだ後すぐに死去したとされる病死説があります。しかし、正室がそんなにすぐ亡くなったのに、その後信長の正室が一切出てこないのは不自然で、これも可能性は低いようです。

そして三つ目が戦死説で、1582(天正10)年に本能寺の変で信長と共に戦死したとするものです。

この説では、本能寺の変を描いた浮世絵「本能寺焼討之図」の中に描かれている薙刀を持って戦う女性が濃姫ではないかとしますが、証拠はありません。

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