このチャンス逃すまじ!北条泰時を論破し、承久の乱に加わった安東忠家【鎌倉殿の13人】 (3/4ページ)

Japaaan

お互い悪い話じゃないだろう」

「しかし……」

「唐土(もろこし)の兵法にも『戦場では大将の判断が最優先(※)』と言うじゃないか。現場を知らない執権ドノに一々お伺いを立てていたら、勝機を逸するってモンさ。このくらいの事はてめぇの裁量でバシッと決めちまいな……いよっ、総大将!」

(※)将在外、君命有所不受(将の外に在りては君命の受けざるところあり)……孫子の言葉。

とか何とか丸め込まれてしまった泰時。うやむやの内に安東忠家は泰時の軍中にもぐり込んでしまったのでした。

終わりに

……及黄昏。武州至駿河國。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居當國。聞武州上洛。廻駕來加。武州云。客者勘發人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無爲時事也。爲棄命於軍旅。進發上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈從云々。

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月25日条

いざ京都へ、進撃の泰時(イメージ)

黄昏に及び、武州、駿河国に至る。ここに安東兵衛尉忠家。

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