悲劇の奥羽越(おううえつ)列藩同盟…幕末期に東北の諸藩はなぜ団結したのか? (2/3ページ)
悪化する薩摩・長州との関係
そこで彼らは、各地で尊皇攘夷運動を行う薩摩や長州の浪人を取り締まります。会津・庄内と薩摩・長州の間に因縁が生まれるのに時間はかかりませんでした。
決定的なきっかけとなったのが、1868年1月に起きた鳥羽・伏見の戦いです。京都を警備していた会津藩・桑名藩と、薩摩・長州軍が京都でぶつかり合うことになります。
この時の薩摩・長州軍の力は圧倒的で、会津藩ら幕府側が敗北したことで、一度戦は終わりを見せたかと思いました。
しかし一部の薩摩・長州藩士は徹底的な討伐を望んでおり、奥羽鎮撫総督府下参謀である世良修蔵は、会津藩の近隣の藩である東北諸藩、特に仙台藩や米沢藩に対して会津の討伐を命じます。
ところが、逆に両藩は会津藩や庄内藩を救済するよう願い出ました(その嘆願は却下されています)。
会津や庄内の討伐が思うように進まない世良は、薩摩藩士の大山格之助に密書を書きました。
世良修蔵の暗殺と同盟結成しかしその密書には、会津藩や庄内藩だけでなく奥羽の藩は皆敵であると記されており、それを知った仙台藩士の怒りを買います。世良は暗殺されました。
このことがきっかけで、1868年5月、薩摩・長州軍に対抗するべく、31藩による奥羽越列藩同盟が結成されます。