尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】 (3/4ページ)

Japaaan

前大将軍)の後家で、第2代・源頼家(演:金子大地)の母である(※あれ、源実朝は?)。前漢王朝の呂太后(りょたいごう)と同じく天下の政治を執り行われた。朝廷を支えて日本を護った彼女は、もしかして神功皇后(じんぐうこうごう)の生まれ変わりではなかろうか。

呂太后とは前漢の初代皇帝・劉邦(りゅう ほう)の妻で、夫の死後は剛腕政治家として権力を振るいました。政子が鎌倉幕府においていかに偉大な存在と見られていたかが分かります。

ただし彼女は皇族や建国の元勲を相次いで粛清するなど後世「中国三大悪女」に数えられるほど悪名高く、それに喩えられたことが政子の悪女イメージにつながったのかも知れません(あるいは政子が悪女だったから呂太后に喩えられた可能性も)。

三韓征伐に乗り出す神功皇后。月岡芳年「日本史略図会 第十五代神功皇后」

また神功皇后とは第15代・応神天皇(おうじんてんのう。やがて神格化し八幡神に)の母で、彼を妊娠中に三韓(古代朝鮮半島に存在した三つの王朝)を征伐した女傑です。

彼女も夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう。第14代)に先立たれており、生まれて間もない応神天皇を後見した点も、幼い三寅(演:中村龍太郎)を支えた政子に重なりますね。

霽。寅刻。二品家御事有披露。出家男女濟々焉。民部大夫行盛最前遂素懷畢。戌刻。於御堂御所之地而奉火葬。御葬事者。

「尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】」のページです。デイリーニュースオンラインは、二階堂行盛北条泰時鎌倉殿の13人吾妻鏡北条政子カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る