稀有な義理堅さが仇となった名将。賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の生涯をたどる (2/5ページ)

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徳川時代も豊臣方に義理立て

しかし、慶長3(1598)年に秀吉が死去してから、彼の前途にも暗雲が立ち込めてきます。

以前から険悪な関係だった、石田三成を筆頭とする「文治派」との対立が激化したのです。正則や加藤清正をはじめとする「武断派」の武将たちは、徳川家康に接近していきました。

そして小山評定の折には、正則はいち早く家康の側につくことを宣言し、東軍の先鋒を任されて西進します。関ケ原の戦いでは開戦直後から終結まで最前線でその力を発揮し、東軍勝利に貢献したことは周知の通りです。

関ヶ原・徳川家康最後陣地跡

その結果、彼はもともと毛利氏の所領だった安芸国広島と備後国鞆49万8千石を与えられました。

正則はこれらの国の整備につとめ、殖産興業を奨励して領内の発展に努めるなど、広島藩の発展の基礎を築いていきます。

ただ、一方で彼は、もともとの主君である豊臣家への義理も欠かしませんでした。秀頼が病を患ったと聞けば、見舞いと称して大坂城を訪問。また家康が二条城での会見を秀頼に迫った時は、会見に反対する淀殿などを説得し、秀頼の上洛を実現させています。

しかし、豊臣家と縁深い有力大名が相次いで亡くなると、家康は豊臣家を滅ぼすべく慶長19(1614)年に大坂冬の陣を起こします。

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