稀有な義理堅さが仇となった名将。賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の生涯をたどる (3/5ページ)
この時、正則は大阪城への派遣を申し出ますが許可されず、江戸留守居役を命じられました(この時、大阪へは代わりに子の忠勝が出陣しています)。
正則は、このように、下剋上も当たり前の戦国の世を潜り抜けてきた人間でありながら、大変に義理堅い武将でした。彼は豊臣方が、正則の大坂屋敷から蔵米8万石を接収するのも黙認しましたし、一族の福島正守と福島正鎮が豊臣勢に加わっても止めなかったと言われています。
ただ、かつての主君に義理立てする彼の態度は、徳川家に強い警戒心を湧かせることになります。
時代にあわせられなかった男次第に、正則は徳川幕府から冷遇されていきました。
家康がこの世を去った翌年の元和3(1617)年、洪水で破損した広島城の修築要請を幕府に願い出ます。当時は、武家諸法度によって城郭の改修には事前の許可が必要と定められていたのです。
が、いくら待っても許可が下りず、無許可のままで修築に取りかかりました。誰がどう見ても仕方のない措置だったのですが、これは明らかなルール違反でもありました。