北条政子が「尼将軍」と呼ばれたのはいつからなのか?【鎌倉殿の13人 こぼれ話】 (2/3ページ)

Japaaan

……実朝御母儀尼将軍 頼朝之御内従二位政子……

【意訳】実朝の御母君である尼将軍(源頼朝の妻で従二位の北条政子)

※『紀州由良鷲峯開山法燈円明国師之縁起』安貞元年(1227年)10月15日条

政子は嘉禄元年(1225年)に亡くなっているため回想シーンとなります。奥書によれば弘安3年(1280年)に記録をまとめた原本が成立したと伝わりますが、本記述のある現存写本は永正14年(1517年)のもの。

恐らく「尼将軍」というあだ名は政子の生前からささやかれており、その死後あたりから市民権を得た(使用が解禁された?)のでしょう。

政子と実朝。歌川国貞筆

しかしその伝承や原本は現存しないためハッキリと断定はできず、確実なところでは、室町時代後期(戦国時代)までには北条政子=尼将軍というイメージが確立していたとするにとどめます。

その他、成立年代は不確かながら『大乗院日記目録』にもこのような記述がありました。

嘉禄元年七月十一日、鎌倉尼従二位如雲(マヽ)入滅、八十九
故時政之女、頼家実朝公■(之カ)母儀、號尼将軍、

【意訳】嘉禄元年(1225年)7月11日、鎌倉にいる従二位の尼・如雲(原文ママ、実際は如実)が亡くなられた。享年89(実際は69歳)。

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