明治維新の火つけ役となった策士“幕末の志士”清河八郎の生涯! (1/3ページ)
幕末の動乱は「清河八郎に始まり、坂本龍馬に終わる」といわれる。
龍馬は幕末動乱の事実上の幕引きとなる大政奉還(1868年)に関係し、八郎はそこへ至る動乱の中心にいた。二人とも暗殺によって生涯を終え、その下手人が同じ人物(後述)という偶然も歴史の妙だろうか。
時代を動かすには、まず世の中を引っ掻き回す役割が求められ、八郎はまさに、その役目を担うために生まれてきた人物といえる。
彼は幕府を手玉に取る策を弄し、幕府の恨みを買って惨殺された。その暗殺事件には、いまだに解明されない謎もつきまとう。波乱に富んだ八郎の生涯を振り返ってみた。
彼の本名は斎藤正明。庄内藩領の清川村(山形県庄内町)の郷士(武士として処遇される農村出身者)ながら、彼が長男として生まれた斎藤家は酒造業などを営む当時の富裕層。村を訪れた文人らをもてなす「楽水楼」という迎賓館施設まであった。
八郎はそこに来る文人らの影響もあり、大志を抱いて一八歳のときに村を出奔。清川八郎と改名(のち清河八郎)、尊王攘夷志士のスタートを切った。
江戸で安積艮斎ら当代きっての学者に学び、当時の最高学府である昌平黌に通い、さらに神田お玉が池(千代田区)の千葉道場で剣術の腕を磨いた。そのお玉が池の道場では、幕臣の山岡鉄舟と同門になっている。
やがて八郎は実家の援助もあって江戸で塾を開き、「文武指南所」と命名。当時、学問と武術を同時に教える塾はなかったから話題になり、志を持った者らが集まってきた。
志士たちが徒党を組むことを恐れる幕府が「文武指南所」を警戒する一方、八郎はむしろ逆に「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という覚悟を決め、文久元年(1861)、三二歳のときに塾生らを中心に攘夷決行のための秘密結社「虎尾の会」を結成した。
まず八郎は横浜の外国人居留地の焼き討ちを計画。当時、異人らが相次いで斬られる事件が起きていたため、「虎尾の会」も幕府に目をつけられていた。