戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

しかしその権力は長くは続きませんでした。その原因のひとつが、彼は男色家だったので実子がなく、複数の養子を迎えたことです。

まずかれは、摂関家である九条氏から澄之を、また阿波細川氏から澄元を、細川の分家から高国を、それぞれ養子に迎えました。

『続英雄百人一首』細川澄之(Wikipediaより)

この中で、最初に家督を譲ることを約束していたのが澄之です。しかし政元はその後、その約束を反故にして澄元を世継ぎに立てます。これが家督争いの始まりになりました。

将軍の座を巡り三つ巴に

三人の養子の家督争いの元凶となった政元は、1507年に暗殺されます。彼は入浴中に襲われたと言われていますが、もともと修験道に没頭して天狗に扮したりするなどの奇行・悪癖があったといわれ、そうした魔術がらみの「入浴」だったようです。

これは細川殿の変と呼ばれ、澄之を擁する幕府重臣・香西元長らの仕業でした。

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