戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】 (3/3ページ)

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さらにその翌日には、澄元が屋敷にいるところを元長に攻め込まれ、近江へと敗走します。

もう一人の養子である高国だけは、澄元を支持することを表明して挙兵し、澄之を討ち滅ぼしたのでした。

細川高国像(Wikipediaより)

これだけでもややこしい話なのですが、今度はこの政変に乗じて、大内義興が周防から、前の将軍だった足利義材(よしき)を奉じて上洛します。

厳密にはこの時、義材は足利義稙(よしたね)へと改名していました。彼はかつて政元から京を追われたものの、越中・越前を経て大内氏に保護されていたのでした。そして、将軍職に復帰するべくチャンスを伺っていたのです。

足利義稙(東京国立博物館蔵・Wikipediaより)

こうして、今度は政元の養子である細川澄元と、11代将軍義澄と、前将軍の義稙の三つ巴となりました。ますます事態が混迷していくさまは、【後編】で解説します。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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