浄土真宗中興の祖と言われる蓮如が説いた「白骨の御文章」 (2/2ページ)

心に残る家族葬

朝は顔色が良く元気であったとしても、夕方に「無常の風」が吹けば、白骨となってしまうような身である。白骨となった我が身を家族が嘆き悲しんでもどうすることもできない。「無常の風」の前に人間はまったくの無力である。それならばどうすればよいのか。阿弥陀仏に頼ること、つまり念仏を申す以外にない。それも「風」が吹く前に死後について、「後生の一大事」目をそらさずひたすら念仏を申すべきである。

白骨の御文章を書いた頃、蓮如は2人目の妻・蓮祐を失い、五女の妙意、長女の如慶を相次いで亡くした。人間にはどうしようもないことがある。諸行無常。人生は気がつけば一瞬である。子供の頃はあれほど長かった時間も大人になるとあっという間である。そのゴールもまだまだ先のことなどと思っていても確実に近づいてくる。一休宗純は「門松は冥土の旅の一里塚」と言った。一年が過ぎればそれだけ死に近づくのに何がおめでたいものかというわけだ。蓮如と一休はウマが合ったらしく、2人の逸話が多く伝えられている。

臨終の時は遠い未来ではない。平均寿命まで生きたとしても80年。精々が100年である。なのに私たちはそのことに目を背け享楽に溺れて忘れようとする。その時になって嘆いても遅い。そもそも80年100年も生きる根拠が無い。今日、今すぐにでも「無常の風」が吹くかもしれない。

蓮如は「後生の一大事」、我々は死んだあとはどうなるのかを最大の問題とし、そこから目を背けずその時に備えて生きよと説いた。どうすればよいかというと、それは人間には及ばない問題であり、阿弥陀仏の宇宙を包む広大な慈悲にすがる以外にはない。「なんだ結局念仏か」と言う声もあるかもしれないが、この結論がなければ人生の無常を嘆く、単なる感傷的な詩歌で終わってしまう。信仰心の無い現代人からみれば阿弥陀仏にすがるのみだとする結論は、現実逃避に見えるかもしれない。しかし「後生の一大事」は人知の及ぶ次元ではない。それでも人間はこの問いからは逃げられず、答えが出ないとわかっていても問わざるをえない。宗教はその問いを引き受けてくれる絶対的な存在を提示する。

■真剣にかつ安心に生きる

蓮如はいつ訪れるかわからない「無常の風」を自覚し「後生の一大事」を心にかけておく。そしてその上で阿弥陀仏に帰依することで、人生を真剣に、かつ安心に生きられるのだという道を示した。現在でも浄土真宗の葬儀・法事ではよく「白骨の御文章」が読まれる。お経と同じものだと考えて聴いていない人もいるかもしれないが、内容は実に味わい深い。機会があれぱ触れてみてもらいたい。

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