NHK大河『どうする家康』でも話題!今川義元の軍師で戦国最強の僧侶「黒衣の宰相」太原雪斎の軍略知謀 (3/4ページ)
雪斎は京都時代に培った人脈をフルに活用して、信虎の嫡男・信玄(当時は晴信)の正室に京の名門三条家から姫を迎えられるよう工作し、水面下で武田家との同盟を模索していたのだ。
三条家は左大臣になれる公卿の家柄で清華家と呼ばれる。武田家としてはそこから嫁取りするのは名誉な話。よって信虎はこの雪斎の調略に乗ったのだ。こうして雪斎は内紛の勝利と武田家との関係修復を同時に実現したのである。
花蔵の乱の翌天文六年(1537)に武田家との同盟が実現するものの、その武田家と国境付近で争う北条氏綱は激怒した。
この年、氏綱はただちに報復として、富士川以東の今川領国( 河東と呼ばれる地方)に侵攻し、またたく間に占領した(第一次河東一乱)。
その後、両者は和睦に漕ぎ着けたものの、北条家が氏綱の嫡男・氏康の時代になると、天文一四年(1545)、今川勢は信玄と連携しつつ、河東地方奪回のために動き出した(第二次河東一乱)。
■軍師としてはもちろん禅僧でも一流だった!
こう見てくると、武田家と同盟した雪斎の判断の誤りが河東地域を失わせ、戦禍を国内に持ち込んだといえる。
しかし、北条家が花蔵の乱の際に承芳派へ加勢したのは、そもそも河東地域への侵攻を図る布石だったとする見方もあり、雪斎はそれを予期して武田家との同盟に切り替えたという解釈も成り立つ。
しかも、この第二次河東一乱の際、北条氏と敵対する関東管領の上杉憲政や古河公方の足利晴氏らが武蔵の河越城を攻め、両面作戦を嫌う氏政は河東地域から撤退し、今川家はその地域の支配権を取り戻した。
河越城を攻めるよう上杉勢を動かしたのも雪斎だったといわれる。
そして、天文二三年(1554)、武田、今川、北条による「甲駿相三国同盟」が締結される。この同盟を実現したのも雪斎。
また、同盟締結の際に信玄、義元、氏康の三武将が雪斎の富士善得寺で一堂に会し、「善得寺の会盟」と呼ばれている。
ただし、戦乱の世の常識からいって、国主クラスの武将が勢揃いしたとは考えにくく、その話は否定されている。