勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】 (3/3ページ)

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また、信雄と家康がそれぞれ単独で秀吉と講和を結んだことで損害を被ったのは、家康に加勢した紀伊の根来寺、雑賀衆、四国の長宗我部家でした。それまではバックに家康がつく形で秀吉に対抗していた彼らでしたが、後ろ盾がなくなったことで、秀吉に立てついたという結果だけが残ることになったのです。

このため、それぞれその後の紀州攻め・四国攻めによって、1585年8月までには秀吉によって討伐されたのでした。

小牧・長久手の戦いは明確な勝者が存在しない戦闘だったと言えますが、こうして歴史の流れを見ると、やはり羽柴秀吉がその後の天下統一に向けて地盤を固めていく足がかりの一つだったと言えるでしょう。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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