勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】 (2/3ページ)
9月にはもはやこの戦は持久戦の様相を呈し、ついに秀吉はしびれを切らして、信雄・家康の連合軍との講和を考えるようになります。
ようやくこの戦いが終息に向かっていったのは11月になってからでした。織田信雄の方が、伊勢半国と伊賀を秀吉に譲渡することになり、ここに和睦が成立したのです。
やっぱり勝者は秀吉また家康の側も、あくまでも信雄を支援するという立場だったことから、これ以上戦闘を続ける理由はなくなります。彼も和睦に応じました。
さらに秀吉は、他にも和睦の条件として、信雄・家康の両者から人質を取ります。
ここで家康が差し出したのが次男の於義丸(結城秀康)で、彼は「秀吉の養子」という名目で大坂へ送られました。細かく言えば、徳川方としては「秀吉の養子」という認識なのですが、秀吉の側では「人質」として捉えていたということです。
こうして見ていくと、小牧・長久手の戦いは、軍事的には引き分けに終わったと言うべきですが、政治的な勝者は秀吉だったと言えるでしょう。
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私たちは後の歴史を知っているので、豊臣家がその後衰退していくことを知っていますが、この時点では、やはり秀吉には勝利の女神がついており、徳川家康はあくまでも「臥薪嘗胆」の立場だったと言えるでしょう。