関ヶ原に遅参した秀忠を許す?どうする?家康を諫めた本多正信のエピソード【どうする家康】 (3/3ページ)

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終わりに

徳川秀忠。楊洲周延筆

七四 関ヶ原御一戦の時、秀忠公木曽路御登り候處、真田安房守支へ申すに付、御遅参なされ候。家康公御立腹にて、「佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……」と仰せられ候時、本多佐渡守御口に手を當て、「先はいはせ申さず候。その御短気故三郎殿御失ひ、未だ御懲りなされず候や。」と申され候に付て、その儘御座を御立ちなされ候由。秀忠公は関ヶ原御遅参、御一生御後悔の由。佐渡守殿老後には、御前にて安座頭巾御免なされ候由。

※『葉隠聞書』第十巻より

この功績により、秀忠が江戸幕府の第2代将軍となった時、正信は将軍の前でも安座(あぐらで座る)と頭巾(通常、かぶりものは脱ぐ)を許されたと言います。

ただ一度の失態ですぐに見捨てず、受け入れたからこそ永く続いた徳川の世。家康の短慮を諫めた本多正信の功績は、実に大きなものと言えるでしょう。

※参考文献:

古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月

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