浮世絵師・河鍋暁斎が描いた「極楽行きの汽車」という極楽絵図 (3/5ページ)

心に残る家族葬

しかしこの絵はもともと、暁斎のパトロンで、嘉永4(1851)年から、恐らく明治18(1885)年ぐらいまで日本橋大伝馬町で、明治維新(1868~1889年)以降は時流に乗った「洋物」の小間物問屋を営み、「月之輪」という俳号を有していた好事家・勝田五兵衛(?~1881?)の依頼で、明治2(1869)年に14歳の若さで亡くなった五兵衛の娘・田鶴(たつ)への追善(ついぜん。身内の者が死者の冥福を祈って、仏事を執り行うこと)のために描かれたものだ。まず田鶴は臨終の際に来迎した阿弥陀三尊と共に、冥界に旅立つ。その中で、過去に亡くなった親族と再会したり、勝田家が贔屓にしていた歌舞伎役者・五代目尾上菊五郎(1844〜1903)を描いている浮世絵師・三代目歌川豊国(1786〜1865)の画室を訪問したりする。更に阿弥陀如来と閻魔たちとの酒宴の後、種々の地獄や閻魔の裁きの様子を遠目に眺める。長く楽しい旅を楽しんだ田鶴は極楽往生を遂げ、最後に仏となる。これらの大部分が田鶴の一周忌である翌3年に完成したのだが、今回取り上げる第34図の「極楽行きの汽車」は、明治5(1872)年7月に描かれたものである。

暁斎の娘で、同じく日本画家として活躍した河鍋暁翠(きょうすい、1868~1935)によると、田鶴は観音様が仮のお姿を宿されているかのように慈悲深く、店に出入りする人々はもちろんのこと、路傍の物乞いたちにも、金銭やいろいろな物を施していた。それはさながら、仏心によって人の心を明るくしたり、生きるための光を導き出したりする「ろうそく」を人の袂に入れてやるかのような優しさだったことから、多くの人たちから崇められていた。そのため、田鶴が亡くなった後、勝田家の人々の悲嘆はもちろんのこと、田鶴の恵みに預かった多くの人たちまでもが、ささやかな供物や香華を捧げたという。人々が嘆き悲しむ様子は、『地獄極楽めぐり図』第1図に、そして田鶴の葬儀の様子は、第7、8図に描かれている。

■「極楽行きの汽車」とは

話を「極楽行きの汽車」に戻そう。田鶴は絵の左上、雲に乗った天女たちの一群の中、赤い着物をまとい、勝田家の家紋・澤瀉(おもだか)で飾られた宝冠をつけ、そばの天女から、鳳凰がてっぺんを飾る天蓋をさしかけられている女性であると考えられる。

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