何人登場する?お葉だけじゃない、徳川家康の十数名もの側室を一挙紹介【どうする家康】 (7/8ページ)
戦場にも連れられ、小牧・長久手合戦の陣中で懐妊するも流産。以降、子供は産んでいない。
亡くなった西郷局に代わって徳川秀忠・松平忠吉を養育し、大坂冬の陣(慶長19・1614年)では豊臣方との和平交渉にも尽力している。
後水尾天皇より従一位を叙位されたため、一位局・一位尼などと称された。
於牟須(おむす)生年不詳~天正20年(1592年)6月18日没
家族:出自不詳(三井氏の娘?)
備考:はじめ同族とされる三井弥一郎に嫁ぐが、弥一郎は小牧・長久手の合戦で討死。幼子を連れて家康の側室となり、三人衆(特にお気に入りの側室三人。残り二人は茶阿局と阿茶局)に数えられるほど寵愛される。
家康の子を出産するも、難産のため母子ともに亡くなった。
於松(おまつ)生没年不詳
家族:出自不詳
備考:ほとんど謎の女性。『源流綜貫』によれば天正10年(1582年)に家康の落胤・松平民部を産んだとされるが、ちょうど家康が厄年であったため認知されなかったとの説も。
三条氏(さんじょうし)生没年不詳
家族:三条氏の娘
備考:ほとんど謎の女性。『源流綜貫』によると天正17年(1589年)に家康の落胤である小笠原権之丞を産んだと伝わる。ただし『御降誕考』だと権之丞は継室・朝日姫の侍女「大さい」が産んだという。
終わりに……大変お疲れ様でした。よく「家康は未亡人≒経産婦が好き」などと言われますが、出産経験があると子宝に恵まれやすいからなのでしょうね。
この際なので、家康の子供たちも一挙に並べておきましょう(個々の詳細説明はまたの機会に)。