平安京誕生前から繁栄していた!古代京都を支配した「豪族の正体」 (2/3ページ)

日刊大衆

『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、用明天皇二年(587)、蘇我馬子が厩戸王とともに物部守屋を倒した丁未の乱に参陣したとされ、これが事実なら、秦氏の軍事力が厩戸王家(上宮王家ともいう)の私兵として用いられたことになり、その関係の深さが窺われる。事実、河勝は推古天皇一一年(603)、厩戸王から授かった仏像を安置するために広隆寺(京都最古の寺)を建立している。

 このように厩戸王との関係もさることながら、寺を建立できるほどの財力は平安遷都の際に活かされた。

 一方、遷都前の京都には秦氏より歴史の古い一族が住んでいたとみられる。『新撰姓氏録』(平安時代初めに編纂された氏族の系譜集)によると、『古事記』『日本書紀』に登場するヤタガラスを祖とする一族だ。

 神武天皇の東征の際、熊野で道に迷った天皇一行の道案内をした霊鳥だ。そのヤタガラスと彼らの祖、賀茂建角身命を同一視するところからくる伝承だ。

 なぜ同一視されたのか。それは、この国に律令制が整った八世紀以降、その一族の者が主殿寮に出仕したことからくる解釈だという。

 主殿寮とは天皇が行幸する際に供奉(同行)し、乗り物を管理する役所。天皇に供奉する役割が神武天皇を先導したという伝説と重なったとされる。また、彼らは宮廷の神事にも携わり、天皇が即位した際の行事の一つである大嘗祭には、灯を掲げて夜間祭事の案内役を務めた。この天皇の先導役のイメージがヤタガラスの伝承を生んだという説もある。

 一方、賀茂建角身命は日本神話に登場する神。その神を祖先にするというのも伝承に過ぎない。それでは彼らは、どんな氏族なのだろうか。

 大和国葛城地方(奈良県御所市)に賀茂氏(鴨氏)と呼ばれる一族がいて、古代の超能力者といわれる役の行者を輩出するが、その葛城の賀茂氏から葛野地方の豪族に婿入りした者がいて、以降、その豪族が賀茂氏と称したとされてきた。しかし、今では次の説が有力だ。

■加茂氏こそが遷都前の京都の支配者だった!

 この国に律令制が整う前、朝廷は地方の支配者(首長=豪族)に「県主」や「国造」という役職を与え、支配下に収めていった。

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