平安京誕生前から繁栄していた!古代京都を支配した「豪族の正体」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 およそ一二〇〇年前の延暦一三年(794)に平安京が誕生する前から現在の京都市中心部には人々が住み、歴史を刻んでいた。その「遷都以前の京都」の謎に迫ってみた。

 当時の京都で栄えた豪族は二氏ある。秦氏と賀茂氏だ。両氏とも後に平安京となる葛野郡と愛宕郡を勢力圏とし、秦氏が現在の太秦(京都市右京区)、賀茂氏が京都盆地北部の賀茂川流域を本拠地としていた。

 まず秦氏から見ていこう。彼らは朝鮮半島新羅からの渡来人。『日本書紀』によると、葛城襲津彦という伝説上の人物の招きで渡来した経緯が記されている。その時期は伝説上、襲津彦が活躍する時代に合わせ、概ね五世紀頃と見ていいだろう。

 当時の朝鮮半島は半島北部の高句麗の攻勢によって動乱の時代を迎えていたから、戦禍を避けるべく海を渡ってきたとみられる。ただし、彼らがなぜ太秦の地を選んだのかは不明だ。

 その太秦の由来については諸説あり、一般的には秦氏が渡来したばかりの頃、秦酒公が雄略天皇に献上しようと絹織物をうず高く積んだため、禹豆麻佐の姓を与えられ、後に太秦の訓が振られたという説がある。

 しかし、それでは洒落がきいているだけで地名の由来とは言い難い。一説には「ウズ」は貴の古語で、「マサ」は朝鮮語の「村」を意味するともいわれ、ウズマサは村を率いる貴族、すなわち秦氏の族長を意味するともいう。秦氏の族長が住んでいたから地名が太秦になったのだとしても、まだ謎は残る。まず秦という氏名の由来だ。これには機織りの集団を率いていた氏族という意味があるという(朝鮮語で「海」を指すともいわれる)。

 では次に、秦氏は渡来後、太秦の地でどう発展していったのか。

 秦氏には葛野川(現桂川)に堰(葛野大堰という)を築いたという伝承があり、彼らは朝鮮半島の最新の治水技術によって土地を切り開き、同じく朝鮮からもたらした養蚕、機織りなどの殖産技術をもってヤマト政権(朝廷)に仕えていたとされる。

 しかし、開発や殖産には人が必要だ。秦氏は渡来系の人々や現地の日本人らを部民(天皇家や豪族らの私有民)として組織していたようだ。

 そして、推古天皇の甥に当たる厩戸王(聖徳太子)が活躍した六世紀末に秦河勝が登場する。

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