平安京誕生前から繁栄していた!古代京都を支配した「豪族の正体」 (3/3ページ)

日刊大衆

 やがて県主や国造は姓(家柄を示す公的な称号)と化してゆくが、もともとは地方長官の役割を担う現実的な役職だった。賀茂氏の先祖がその葛野地方の県主だったことはいくつかの史料から窺える。

 つまり、彼らが賀茂氏と称する前は葛野県主一族というべき存在だったのである。

 ところで、県主の誕生起源は古墳時代の四世紀ともいわれ、それ以前に彼らが首長として葛野地方を支配していたとすると、前述した通り、五世紀以降とみられる秦氏の渡来時期より歴史は古く、賀茂氏こそが遷都前の京都の支配者だったといえる。

 葛野県主一族は、支配地域である京都盆地北部を流れる賀茂川の水源の一つ、貴布禰(貴船)の神を祀り、岡本(京都市北区)と呼ばれるところに居住していたという。

 そして、天武天皇六年(677)、その地に神社(現在の上賀茂神社=京都最古の神社)を創建し、奈良時代に下鴨神社(京都市左京区)と分かれる(両社を併せて賀茂社という)が、葛野県主の一族が両社の神官となった。

「神」は今では「かみ」と読むものの、古い時代の読み方は「かむ」。

 その「かむ」が訛って「かも(賀茂)」になったとされ、こうして彼らは賀茂氏と呼ばれるようになった。

 賀茂社が朝廷(国家)によって保護されたあとは賀茂氏の一族から神官が補任され、平安遷都が実現すると、上賀茂、下鴨の両社は国家鎮護の社となった。賀茂社の祭りは葵祭として知られるが、その名は神紋の二葉葵にちなみ、平安時代以降、未婚の皇女が斎院となって、その葵祭などの神事に奉仕したのである。

 つまり、遷都以前の京都で財力を蓄えた秦氏が平安京建設に経済面で尽力し、賀茂社の神官だった葛野県主の末裔たちは精神的支柱として平安京の鎮護を担ったといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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