なぜ豊臣秀吉は「関白」の地位を望んだのか?征夷大将軍ではなく貴族のポジションを選んだその理由

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なぜ豊臣秀吉は「関白」の地位を望んだのか?征夷大将軍ではなく貴族のポジションを選んだその理由

「貴族」豊臣秀吉?

豊臣秀吉といえばもちろん「戦国武将」ですが、しかしよくよく考えてみると、実は彼は貴族でもありました。なぜなら1585年、関白に就任しているからです。

この関白就任そのものは誰でも知っていることですが、だから彼は貴族なのだと言われると、ちょっとした違和感を感じますね。

豊臣秀吉像

それにしても、彼はなぜ関白に就任したのでしょう。武家として統一政権を構築するなら、征夷大将軍となって幕府を開くのが普通です。しかしそこはさすがの豊臣秀吉で、彼なりの謀略があったのです。

公卿から関白へ

小牧・長久手の戦いが終わったのが1584年で、秀吉はその翌年の3月に正二位・内大臣に叙任され、公卿となります。そして紀伊制圧、四国の長宗我部元親討伐を進める7月には、今度は関白に任じられました。

岡豊城の長宗我部元親像

そもそも公卿というのが、従三位以上の貴族を指し、朝廷の政治を担う存在です。かつての室町幕府では、将軍を除けばその一族の一握りの有力者しか就任していないという特別な地位でした。

その公卿になっただけでも異例なのに、そのたった四か月後には、彼は朝廷内で臣下の最高位である関白にまで出世したのです。

もちろん、何の理由もなく任ぜられたわけではありません。秀吉は、五摂家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)筆頭である近衛前久の猶子になり、もともと関白任官が可能になるようにしていたのです。

こうして、五摂家以外で関白に就任した、日本史上初の事例ができあがったのでした。

では改めて、なぜ秀吉は征夷大将軍ではなく関白の地位を望んだのでしょうか。

秀吉の目論見は?

彼が関白になったのは、朝廷内での対立に彼が介入したことが理由でした。当時は、関白である二条昭実と内大臣の近衛信輔が対立しており、双方が秀吉に相談していたのです。

二条昭実(Wikipediaより)

そこで秀吉は、彼自身が近衛家の一人として関白に就任し、その後、近衛信輔へと関白職を譲れるように朝廷に認めさせたのです。つまり彼は中継ぎとして関白に就任したのでした。

もちろんこれは、ただ近衛のためにやったわけではなく、関白職の権威を統一政権運営に利用しようという目論見もありました。彼は貴族社会に武家を組み込んでいき、貴族も統率することを試みたのです。

しかし、彼のこの試みは失敗でした。武家が官職についてもうまくいくはずがなく、朝廷の政治は停滞します。

この改革を否定し、あくまでも武家と貴族を分ける支配体制へと戻したのは徳川家康です。秀吉亡き後に実権を握った家康が就任したのは、関白ではなく征夷大将軍のポジションでした。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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