織田勢から見た三方ヶ原合戦。運命の12月22日を『信長公記』はどう伝えたか【どうする家康】 (4/4ページ)
信長にしてみれば「チッ。家康め、しくじったか」「籠城しておけばよいものを、血気に逸りおって、少しは懲りたか愚か者め」程度の感覚だったのかも知れません。
ちなみに、文中の「馬上より御弓にて射倒し懸抜御通候是ならす弓之御手柄不始(馬上から弓で敵を射倒し突破した。家康の強弓は今に始まったことではない)」は、家康が尊敬する源頼朝(みなもとの よりとも)を意識したのでしょうか。
……武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飮羽。所射殺之者多之。……
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月24日条
【意訳】武衛(頼朝)は馬上から敵を射ること百発百中。その矢を飲まざる(矢に当たらない)者はおらず、多くの者を射殺した。
石橋山の敗戦後、捲土重来を果たした頼朝を、家康になぞらえていたのかも知れませんね。
三方ヶ原の敗戦は、後に家康を大きく雄飛せしめる契機となったことでしょう。
※参考文献:
『信長公記』国立公文書館デジタルアーカイブ 仲川太古 訳『現代語訳 信長公記』中経出版、2013年10月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan