織田勢から見た三方ヶ原合戦。運命の12月22日を『信長公記』はどう伝えたか【どうする家康】 (3/4ページ)
しかし三十郎は「貴殿らの見舞いにやって来ておきながら、いざ貴殿らに苦難が迫っていると知って見捨てたら、武士以前に男の面目が立ちません。かくなる上は、各々方と共に戦いまする」と譲らない。
「武士ならずとも、義によって助太刀致す」四人に加勢する玉越三十郎(イメージ)
果たして三十郎も、四人衆と共に壮絶な最期を遂げたのである。
そんな修羅場の中で家康は敵の大軍へと乱入。血路を切り拓いた先にも待ち構える敵の伏兵を馬上から次々と射倒し、辛くも窮地を脱したのであった。家康の弓は今に知られたことではない。
命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康は守りを固め立て籠もり、大勝利を収めた信玄は城を攻めず兵を退いたのであった。
終わりに以上が元亀3年(1572年)12月22日の全記述になります。
要約すると「多くの将兵が討死し、その中にはかつて信長に仕えていた小姓4名と、彼らの親友1名が混じっていた。家康は必死に戦い脱出した」と言ったところでしょうか。
将兵の被害についてはあまり触れておらず、四人と一人の美談が大きくクローズアップされているのは意外な印象ですね。