「関ヶ原の合戦はなかった」戦国史に浮上した新説の「真相」とは? (2/4ページ)
また、歴史家の白峰旬氏は島津家家臣の史料に基づき、三成ら西軍主力メンバーは鶴翼の陣どころか、逆に密集して布陣していたと論じ(「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」/『史学論叢』46号)、こうして西軍が有利な陣形を敷くために大垣城を出たという前提が崩れてきたのだ。
そこで次に問題になるのが「問鉄砲」だ。関ヶ原のはずれ、山中村の松尾山に布陣した小早川秀秋は開戦前に東軍への寝返りを約束していたが、合戦が始まっても、なかなか陣から動こうとしなかった。
そこで焦れた家康が一斉射撃を命じるや、秀秋はこの恫喝に怯え、麓の西軍陣地へ討ちかかった――この有名な逸話を「問鉄砲」という。
しかし、一次史料でこの逸話も確認できず、今では史実かどうか疑われている。また、秀秋が開戦と同時に寝返り、東軍として戦ったことを窺わせる史料もある。
イエズス会の宣教師が本国へ送った『一六〇〇年度日本年報補遺』に「始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前国をもらっていた中納言がいた(秀秋のこと)」とある。
途中で寝返ったのだとしたら、こういう表現にはならない。秀秋は毛利の分家に当たる小早川家の養子に入っているものの、北政所(秀吉の正室おね)の甥に当たる。
実は八月二八日に、東軍の先陣として美濃へ進軍していた浅野幸長と黒田長政から密書が秀秋へ届けられ、「二、三日したら内府公が美濃に入るので御忠節することが重要」「われら両人は北政所様のために動いているのでこのような書状を送った」と伝えていたのだ。
幸長は彼女の甥。