「関ヶ原の合戦はなかった」戦国史に浮上した新説の「真相」とは? (3/4ページ)

日刊大衆

長政も幼少のころに織田信長の人質となって、当時、その武将だった秀吉に身柄を預けられ、北政所に養育された。家康が北政所の縁つながりで東軍方の幸長と長政に秀秋を調略させたわけだが、彼女が家康を支持していたかどうかいまひとつはっきりせず、彼らの動きが本当に北政所のためであったかどうかは不明だ。

 ただ、彼らが彼女の名前を出したことが功を奏したようだ。合戦前日の一四日、家康の重臣本多忠勝と井伊直政の両名から小早川家の家老二名に宛てに「内府は秀秋を疎かにしない」「忠節をみせてくれたら秀秋に西国で二ヶ国の知行宛行状を与えよう」という起請文が差し出されたところを見ると、秀秋は幸長と長政の要請に応じたのだろう。

■関ヶ原の合戦ではなく「山中之合戦」だった!?

 一方の三成は、大垣城はもとより、松尾山にも新たな城を築き、家康に苦手な城攻めを強いる作戦だったとされる。偽文書説が囁かれているものの、「松尾新城」という言葉が登場する史料もある。三成は伊藤盛正(大垣城主)を松尾山の守備につかせていたとされ、秀秋がその伊藤勢を追い払って松尾山に着陣したことから、その時点で西軍は作戦を見直さざるをえなくなったのだ。

 さらに、その後、小早川勢の裏切りが確実になったと確信したのだろう。つまり三成らは、有利な陣形を敷くために大垣城を出たのでなく、裏切りが確実になった秀秋を討つために夜陰に乗じて城を出て松尾山を望む山中村に布陣した――山中村が主戦場だったという解釈が成り立つわけだ。

 実際に吉川広家は合戦直後の自筆の書状(案文)などで「筑中(秀秋)の御逆意によって大柿(垣)衆(西軍)は山中に赴いた」とあり、関ヶ原の合戦ではなく、「山中之合戦」と呼んでいる。主戦場が山中村なのだから「関ヶ原の合戦はなかった」――というわけだ。

 ただし、山中村が主戦場だったとする説を実証するには、江戸時代に書かれた関ヶ原合戦の布陣図との整合性の他、まだまだ課題が多い。

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