鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】 (2/4ページ)
これは勝家が「かかれ!」と号令をかけると将兵が奮い立ち、多くの敵を突破したことに由来するとか。
あるいは、敵以上に勝家の方が恐ろしかったのかも知れませんね。
甕割り柴田(かめわりしばた)次はこちら。時は元亀元年(1570年)、勝家が長光寺城(滋賀県近江八幡市)を守備していたところを、六角承禎(ろっかく じょうてい。六角義賢)に包囲されてしまいます。
勝家は将兵を叱咤してよく守り抜いていたものの、援軍はなかなか来てくれません。その内に兵粮も水も底を尽きかけていました。
「者ども、すべて叩き割れ!」決死の覚悟で勝負に臨む(イメージ)
このままでは飢えと渇きで全滅してしまう。覚悟を決めた勝家は、水を蓄えておいた甕をすべて叩き割って全軍に出撃を命じます。
もう後がないと覚悟した将兵らは死に物狂いで敵を撃破し、九死に一生を得たのでした。
そこで勝家は「甕割り柴田」と呼ばれ、長光寺城の山も甕割山と呼ばれるようになったのでした。