『いいとこのお坊ちゃん』だった!?忠臣蔵ヒーロー大石内蔵助の実像 (2/3ページ)

日刊大衆

 このように大石家は華麗な縁戚関係を誇り、内蔵助は今でいう「いいとこのお坊ちゃん」だった。

 こうして門閥家老と呼ばれる家柄の世継として大事に育てられたわけだから、ドラマなどで「昼行燈」と揶揄されても不思議ではない。

 ただし、当時、内蔵助がそうあだ名された記録はない。討ち入り後、当時の知識人たちが「あくせくとして自らを用いることをなさず」(儒学者の栗山潜峰)、「常に韜晦(自分の才能を隠すこと)してあらわさず」(儒学者の五井蘭州)などという内蔵助評を下し、それらが一人歩きし、後世、「昼行燈」というあだ名が定着していったとみられる。藩が改易にならずにいたら、門閥家老として、ごくごく平凡に世を送ったことだろう。

 しかし、元禄一四年(1701)三月一四日に江戸城内で内匠頭が吉良上野介義央を斬りつけて幕府から切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰された。早駕篭によって赤穂にその報が届いたのは一九日の早朝。初めは上野介の生死、つまり、幕府が喧嘩両成敗の原則に基づき、処罰したかどうか分からず、内蔵助はまず、赤穂城明け渡しの際、浅野家再興を幕府に乞い願うため、大手門の前で切腹して果てようとした。

 ところが、上野介が生きていることが分かり、仇討ちに考え方を改めたようだ。とはいうものの、まだ浅野家再興の願いが消えたわけではなく、内蔵助は、城受け取りの使節が来たら一戦を交えて玉砕するという過激な家臣らを抑え、四月一九日、城は無事、明け渡された。

 以降、浅野家再興と仇討ちへ向け、内蔵助が動き出すことになる。

 彼は六月二五日に赤穂を去り、二八日、京近郊の山科に入った。寓居は、江戸から急使が赤穂に到着した直後から親戚筋の者に探させたもので、用意周到な内蔵助の性格がよく現れている。ここで必ず語られるのが彼の放蕩生活だ。

 祇園の有名な「一力茶屋」に通っていたというものの、山科から近い伏見の花街橦木町でならともかく、いくら“お坊っちゃん”の元家老と言っても、祇園で有名な茶屋で放蕩三昧できるほどの遊興費を持ち合わせていない。

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