『いいとこのお坊ちゃん』だった!?忠臣蔵ヒーロー大石内蔵助の実像 (3/3ページ)

日刊大衆

「内蔵助が仇討ちの本意を隠すために遊興を繰り返した」というのも後世の作り話だろう。

 この頃、内蔵助は義絶を求める手紙を親戚筋に出しており、その辺りから内蔵助の放蕩という逸話が生まれたのではなかろうか。

 その後、内蔵助は一一月三日に江戸入りするが、その目的は泉岳寺(東京都港区)にある主君の墓参りのほか、討ち入りを急ごうとする堀部安兵衛ら江戸急進派をなだめることにあったとされる。一方、(財)中央義士会の前理事長中島康夫氏によると、内蔵助が瑤泉院(内匠頭の未亡人)から預かっていた六九〇両を仇討ちのために使うことの許可を取り付けることが真の江戸下向の目的だったという(『真説・忠臣蔵 大石内蔵助の生涯』)。

■「南部坂雪の別れ」は史実ではないとされる

 内蔵助と瑤泉院というと、ドラマなどの「南部坂雪の別れ」の名シーンで有名だ。討ち入りの前日、内蔵助が南部坂(東京都港区)の屋敷に暮らす瑤泉院を訪ねたものの、屋敷内に吉良方の間者が潜入している可能性を恐れ、「西国の大名に召抱えられた」と偽りを言って別れを告げた。

「忠義の心も忘れたか」と怒って席を立つ瑤泉院だが、やがて、内蔵助が置いていった旅日記が浪士たちの連判状だと知り、別れの意味を初めて悟った彼女が亡き夫の霊前に合掌するというストーリーだ。

 もちろん、史実ではない。しかし、内蔵助が討ち入りの一年前に瑤泉院を訪ねたのだとしたら、どんな会話がなされたのだろうか。

 さて、一回目の江戸入りから、いったん上方へ戻った内蔵助だが、明けて元禄五年(1702)七月に再興の願いが消え、吉良邸討ち入りのため、一一月五日、再び江戸の土を踏んだ。そして、一二月一四日に吉良邸で茶会が開かれると耳にするが、ここでも内蔵助は用意周到だった。

 複数のルートを使い、情報の裏取りを行って浪士たちが確信して討ち入りできる態勢を整え、彼らは見事、宿願を遂げることができた。

 自らに課せられた役割に対して周到に準備を重ね、力強く生きた内蔵助。“いいとこのお坊っちゃん”のイメージとは、かけ離れた人物だったといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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