「どうする家康」何を考えておられるんじゃあ~!第19回放送「お手付きしてどうする!」振り返り (7/10ページ)
お万も浜松に戻ってきましたが、その頃には於愛の方(演:広瀬アリス。西郷局)が三男の長松(ながまつ。後の徳川秀忠)を生んでおり、寵愛はそちらへ移ってしまいました。
……七年の卯月七日に浜松の城にしては三郎君生れたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし 台徳院太政大臣の御事なり。御母君は西郷の局と申。さしつづき翌年この腹にまた四郎君生れ給ふ。是薩摩中将忠吉卿とぞ申き。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正六年-同七年「天正七年秀忠生」
こちらはちゃんと母親の存在が記されており、身元の確かさ(身分の高さ)と家康からの寵愛が判りますね。
やがて於義伊丸が成長して秀吉の元へ養子に出され、秀吉の死後に越前北ノ庄(福井県福井市)で大名になると、お万もそちらへ移住します。
慶長12年(1607年)に秀康が亡くなると菩提を弔うために出家。家康の許可はなかったそうですが、正直どうでもよかったようでお咎めはありませんでした。
そして家康死後の元和5年(1620年)12月6日、73歳で生涯に幕を下ろします。
家康の気まぐれで関係を持ってしまったために瀬名から冷遇され、邪魔な瀬名がいなくなったと思ったら寵愛はすでに他の女性へ移り、一生涯飼い殺し状態。何だか可哀想ですね。
一、食い逃げと「焼き味噌」についてさて、三方ヶ原合戦で惨敗した家康は、遠江領民からさんざんバカにされていました。