本当に江戸時代を代表する名君!?会津藩祖・保科正之「事績は脚色説」 (2/3ページ)
早く最上(山形)の肥後様(正之)へ」という唄が流行ったという(『千載乃松』)。
そして、彼が山形藩主になった翌年の寛永一四年(1637)、最上地方は飢饉に見舞われたが、正之の政治が行き届き、「餓死人(者)」は出なかったという(『会津藩家世実紀』)。
こうして三三歳のときに三万石加増のうえ、会津藩へ転封され、寛文一二年(1672)に六二歳で亡くなるまで善政を尽くしたとされる。
その一例が社倉制度。中国宋の時代に、朱し ゅ熹き (朱子学の創始者)によって考案された制度で、飢饉や凶作に備えてコメを備蓄しておき、人々が困窮した際に給付するもの。日本で初めて正之が実施した。
一方、父の秀忠は対面することなく没したものの、兄の家光からは信任された。『会津松平家譜』によると、家光は正之の大名行列を将軍と同列にすることを認め、慶安四年(1651)四月二〇日に亡くなる間際、正之を枕元に呼び、「家綱はいまだ幼少なので“汝に託す”」という遺命を残した。正之が涙を流して誓いを立てると、その様子に家光は安心して息を引き取ったという感動的なシーンに仕立て上げられている。
こうして家綱の後見人として後の大老職に当たる重責を担い、明暦三年(1657)の一月一八日から二〇日にかけて発生した明暦の大火では、その指導力をいかんなく発揮したことになっている。
火災発生の翌一九日、江戸城の本丸にも火が及び、狼狽した幕閣らが将軍家綱を上野の寛永寺(現・上野公園)へ避難させようとしたところ、正之は「上野へ御立ち退きになるのはもってのほか。城内の西の丸へ御移りになられるか、もし西の丸が焼失すれば本丸跡に陣屋を立て、そこにおはすべき」と主張して譲らなかったという(『会津藩家世実紀』)。
将軍が避難したという噂が流れたら、市中の混乱に拍車が掛かったはず。それを未然に防いだのだ。
その正之は亡くなる四年前の寛文八年(1668)、引き立ててくれた兄家光への感謝の気持ちから「会津家訓十五箇条」を定め、その中で「大君(将軍)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」(第一条)と記して歴代会津藩主の行動規範となった。
では、彼の事績のどこが見直されつつあるのか。