本当に江戸時代を代表する名君!?会津藩祖・保科正之「事績は脚色説」 (3/3ページ)

日刊大衆

歴史学者・小池進氏の説に基づき、見ていこう。

 まず出生地だが、江戸市中ではなく、武蔵国足立郡大牧村(埼玉県さいたま市)の可能性が高くなった。

 それを裏づけるのが、生母静が大宮の氷川神社(同)に奉納した願文。正之が生まれる三ヶ月前、彼女が男子出生と安産を祈願したものだが、氷川神社は、静が世話になった見性院の知行地である大牧村の近く。

 したがって、大牧村で出産に備えた静が氷川神社に祈願するのは当然のことで、正之がそこで生まれたと見るのも理にかなう。

 また、その願文には秀忠の正室江の「しつと(嫉妬)の御こころふかく」とあり、一次史料で彼女の嫉妬心も証明された形だ。

■大火の際の活躍ぶりは少し誇張されていた!?

 続いて正之の藩政面も一部、見直されている。最上地方を襲った飢饉の際の対応だ。前藩主時代より年貢の税率を引き下げたものの、飢饉の際にも厳格に取り立て、ある村では屋敷持ちの農家六〇軒のうち、六〇人が身売りする末路になったという。

 正之が民衆のための政治に取り組んだのは事実だが、やはり封建領主として、民衆の生活より藩の財政を優先するところがあったのだろう。

 また、家光が臨終の際に正之へ家綱の将来を託したという感動的なシーンも史実ではなさそうだ。

 いくつかの史料から家光の病状が急変し、対面する予定だった御三家(尾張、紀伊、水戸)の当主も遠慮する状態だったというから、とても家光と正之の間で前述した内容のやり取りがあったとは考えられないのだ。あったとしても、家光の病状がまだ安定している頃の話だったであろう。

 明暦の大火の際の正之の活躍も誇張されているようだ。正月一九日に江戸城本丸に炎が迫り、正之が西の丸へ移ることを献策したというが、前土佐藩主の書状などの一次史料で、家綱が西の丸入りした際に供奉したメンバーに正之の名はなく、彼の動きが確実に分かるのは、その翌日の二〇日になってからだという(小池進著『保科正之』)。

 しかし、重大な案件について老中たちが正之に相談していた事実は確認できる。

 大火の際の活躍は誇張されていたとしても、事実上の大老として、家綱の政治を支えた名君であった事実に変わりはない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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