【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】 (2/6ページ)

Japaaan

信長に屈した家康は、天正7年(1579年)8月29日に築山殿、同年9月15日に信康をそれぞれ自刃させたのでした。

※一説には、往生際の悪い築山殿を、介錯人の野中三五郎重政(のなか さんごろうしげまさ)が斬ったとも言われます。

さて、遺された信康の娘たち(福子、国子)は母親の五徳に捨てられ(一人で織田の実家に帰ってしまいました)、祖父の家康とその側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)に養育されたそうです。

信康の遺児はこの姉妹二人だけかと思いきや、江戸時代の系図集『系図纂要(けいずさんよう)』を見ると、男児の存在が記されていました。彼の名は万千代(まんちよ)。果たしてどのような生涯をたどったのでしょうか。

松平万千代は信康自害後も生き延びた?

童 万千代
母 日向大和守時昌女

※『系図纂要 清和源氏 三』より

系図の記述はこれだけ。万千代とは幼名で、母は日向大和守時昌(ひなた やまとのかみときまさ)の娘。これ以外に情報はないようです。

日向大和守時昌は武田信玄(しんげん)・勝頼の二代に仕え、別名を日向虎忠(とらただ)・日向昌時(まさとき。誤記?)などとも言いました。

信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)を守備するも、天正10年(1582年)に織田の侵攻を受けると陥落。時昌は自ら開基した光村寺(山梨県北杜市)まで逃げて、息子の日向二郎三郎(じろうさぶろう)と共に自刃して果てたと言います。

話は戻って万千代。その生年は不詳ながら、父・信康の没年と母・五徳の訴えから概ね割り出すことが可能です。

天正5年(1577年)7月 信康次女・国子が誕生。

天正7年(1579年)9月 信康が自害

ここから築山殿が五徳をいびり、勝手に日向家の娘を連れてきたのはこの間となります。

そして彼女を側室に迎えて(時期は不明)から子供が生まれるまで約1年かかるため、万千代の生年は天正6年(1578年)~天正8年(1580年)の間と考えられるでしょう。

「【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、野中重政穴山勝千代武田信吉松平福子松平国子カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る