「女」を取り巻くラベルを見つめ直すことで気づくこととは? 『それでも女をやっていく』書評 (3/3ページ)
「下ネタで笑う空気も嫌だったが、そこに多分にあった、男だけの内輪感、その内輪を盛り上げる装置として使われている外野としての自分、という状況が嫌だった。深夜終電で降り立った地元駅でドロドロの吐瀉物をうっかり踏んでしまったときの気分だった。 吐いた奴が悪いのだが、回避できずにこんな目にあっている自分という存在が悪い、という気がしてくるあれ。そんな世界への行き場がない怒りに支配された」 (本文より引用)
私は吐瀉物を踏んでも、かけられても、多分へらへらしてきた側の人間だ。それどころか、昔の自分は隣の女性がかけられたのを見て見ぬフリをして、自分にかからないようスッとその場を立ち去ったこともある。
■「女をやっていく」とは
これは私が共感した一例ではあるが、本書には「女」の人間関係の難しさや、「女」の連帯に関するエピソードも多く載っている。
相手との適切な距離感を測り損ね、「友達ならわかってくれるよね」の甘えから始まったすれ違いの話だったり、奇妙な縁で引き合わされた女性と築く新しい友情の話だったり。
最後の3章目で、著者はジェンダー論・メディア論をイギリスで学び直した話の後に“フェミニスト”という言葉の持つ熱と危うさについて言及している。
私も自分なりのフェミニズムを盾に意見や要求を正当化し、特定の「男」または「男」全般に対して「加害者」のレッテルを無意識に貼ってしまうことがあると自覚しており、声高々に“フェミニスト”を名乗ることはできない。
それどころか、フェミニズムやジェンダーについて学び、本を読み重ねるほどに、“フェミニスト”という言葉を聞くと心臓の毛がざわっと逆立つのだ。
本書は、一つの問いで締めくくられている。 「あなたは、フェミニストですか?」
私たちの、こじれにこじれた自意識がほどけるときはくるのだろうか。
傷つけられ、誰かを傷つけ、やり過ごし、やり過ごしたことをふいに後悔し、過去の自分への問いかけを繰り返すことで少しずつ知恵もついて面の皮も厚くなり、社会や「ズルい自分」と闘えるようになってくる。
その過程が「女をやっていく」ということなんだろう。
(ジェラシーくるみ)