「女」を取り巻くラベルを見つめ直すことで気づくこととは? 『それでも女をやっていく』書評 (1/3ページ)
ちょっと重たくて、面白いエッセイを読んだ。
『それでも女をやっていく』
そのタイトルを見たときに「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というフランスの哲学者・ボーヴォワールの言葉を思い出した。
■「女になった」瞬間
私が小学生高学年の頃、祖母の家でそれはやってきた。今まで感じたことのない痛み。お腹を内側からジリジリ焼かれているような不快感の後、拳で腰を殴られたような鈍い痛みを感じた。
祖母が炊いてくれた赤飯を「これが噂に聞くやつか……」と不思議な気分で食べたのを覚えている。
夜、迎えに来てくれた父の車に乗り込もうとして、いつものようにガードレールをまたいだ私を祖母は穏やかにいさめた。
「XXちゃん、もうそんなことしたらダメ、今日から女になったんだから」
祖母のぽかぽかした呆れ顔とは対照的に、私がそのとき感じた居心地の悪さ、父に聞こえていないかというざらついた恥ずかしさの感触は、今も胸の内に刻まれている。
自分が「女」だと感じさせられるのは、このような綺麗でわかりやすい瞬間だけではない。 本著では、「女」にまつわる葛藤や困難、不自由さ、味わい深さ、そして「娘」「腐女子」「異性愛(ヘテロ)」「弱者・被害者」など、著者が自ら付し、また他人から付せられてきた様々なラベルについての考察が綴られている。
起きた事象や過去の感情から少し距離を置き、どこか俯瞰しながら書かれたノンフィクション本が世にはたくさんある。テンポ良く、小気味よいエッセイも。
だが本書は、そんな余裕を許さない。
自身の物語をつぶさにルーペで観察し、拡大された断片を読者にずいっと差し出してくる。ときにユーモラスで、ときに自虐的で、ときに手厳しい。
ええ、ここまで曝け出していいの? とこちらが赤面しながら両手で顔を覆い、人差し指と中指の間からおずおず覗き見してしまうような、そんな生々しいシーンも多々ある。