日本に英語を普及させた功労者!“元漂流民”ジョン万次郎の生涯 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 それまでオランダ語が唯一の西洋語だった幕末の日本にアメリカ艦隊を率いてペリー提督が来航したとき、日本で英語を話せる人はほとんどいなかった。

 そこで幕府が白羽の矢を立てたのが元漂流民の中浜万次郎(のちに彼は「ジョン万次郎」と呼ばれた)。

 土佐の漁師だった彼が遭難してアメリカの捕鯨船に命を救われ、一〇年の歳月をアメリカ、さらには捕鯨船員として洋上で過ごしたあと、ペリー来航の二年前の嘉永四年(1851)、祖国に帰りついていたのだ。

 事実上、日本が国を鎖と ざしていた当時、自分の意思ではなかったにせよ、国禁を犯した万次郎は死罪となっても仕方がなかったところ、土佐藩や幕府に厚遇され、重要な外交交渉の通訳を任されるというのだから異例中の異例。

 しかし、ペリー来航の露払いともいえるタイミングでの帰国だったため、攘夷主義者の水戸藩前藩主徳川斉昭は「(アメリカの)計略といえないことはない。中浜(万次郎)も墨夷(アメリカ)に恩義を感じているだろうから墨夷のためにならないことはしないだろう」と、老中阿部正弘に万次郎をスパイ扱いする密書を送った。

 結果、このスパイ容疑などの影響で万次郎が日米交渉の通訳として活動することはなかったが、彼が幕末の日本に多大な影響を与えたのは事実だ。いったい彼は幕末の日本に何を残したのか、その生涯を振り返ってみよう。

 土佐中ノ浜(高知県土佐清水市)で貧しい漁師の次男に生まれた万次郎の乗った漁船が遭難したのは天保一二年(1841)、一四歳のとき。

 漂流して無人島(伊豆諸島の鳥島)に辿り着き、近くを航行するアメリカの捕鯨船(ジョン・ハラウンド号)に拾われ、船長に気に入られた彼は他の乗員とハワイで別れ、そのままアメリカ本土ヘ帰港する船に乗り込んだ。

 ちなみにその頃、彼は船の名を取って「ジョン・マン」と呼ばれている。その万次郎ことジョン・マンは、船長の養子となってマサチューセッツ州フェアヘーブンでともに暮らし、専門学校で数学、測量、航海術、造船技術などを学んだ。

 学費は水夫としてジョン・ハラウンド号で働いた報酬と樽作りのアルバイトで稼いだ金。

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