大坂の陣で壮絶な最期!石川数正の次男・勝千代(石川康勝)がたどった生涯【どうする家康】 (4/5ページ)

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大坂の陣で壮絶な最期

戦国ファンならみんな大好き?昌幸の次男・真田信繁(画像:Wikipedia)

かくして浪人となってしまった康勝は、慶長19年(1614年)に家康が豊臣討伐(大坂冬の陣)の兵を挙げると、兄と共に秀頼の加勢に駆けつけました。

大坂城に立て篭もった康勝は、松平忠直(まつだいら ただなお。秀康の子で家康の孫)の部隊を砲撃しようとしたところ、誤って火薬を爆発させてしまいます。

この事故で康勝も負傷してしまい、これを内応の合図と勘違いした寄手が一気に攻めて来ました。

しかし城方の守りは堅く、奮戦の末にこれを撃退。何とか一矢報いたのでした。

康勝はじめ諸将の働きが奏功して、ひとまず停戦に持ち込んだ豊臣方。しかし何やかんやで大坂城の堀を埋め立ててしまった徳川方は、翌慶長20年(1615年)に再び攻め込んで来ました。

これが後世に伝わる大坂夏の陣。もはや後のない康勝らは、決死の覚悟で挑みます。

5月7日、真田信繁(さなだ のぶしげ。真田幸村)の寄騎として天王寺口の戦闘に参加。敵味方入り乱れる中で壮絶な最期を遂げたということです。

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