大坂の陣で壮絶な最期!石川数正の次男・勝千代(石川康勝)がたどった生涯【どうする家康】 (3/5ページ)

Japaaan

秀吉の死により家康へ帰参するも……

関ヶ原の合戦(上田城攻め)では、老獪な真田昌幸に翻弄されてしまった(画像:Wikipedia)

さて、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権内で派閥抗争が勃発。このタイミングで康勝は家康に帰順し、石田三成(いしだ みつなり)らと争います。

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康の嫡男・徳川秀忠(ひでただ)率いる別働隊に参加。

中山道を進撃したものの、信州上田城で真田昌幸(さなだ まさゆき)に足止めを食らい、とうとう決戦には間に合いませんでした。

家康によって兄ともども所領を安堵されて康勝ですが、秀吉の遺児である豊臣秀頼(ひでより)とも親しくしていたようです。

慶長18年(1613年)8月には豊国大明神(秀吉を祀る神社)へ秀頼の代参を任されており、よほどの信頼関係があったことをうかがわせます。

しかしそれが原因か、同年10月に兄が所領隠し(≒脱税)容疑で改易処分にされると、康勝も連帯責任で改易されてしまいました。

一説には大久保長安(おおくぼ ちょうあん/ながやす)事件の連座とも言われています。

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