今こそ再評価すべき「悪役」山縣有朋!超一流だった政治家としての実像 (2/3ページ)
超一流の判断力
まず、山縣有朋と言えば「藩閥の権化」というイメージがあります。確かに陸軍では長い間、長州藩の出身者が幹部のポジションに就いていました。とはいえそれが全てだったわけではなく、他藩出身者も登用されています。実際には、出身地だけでは成り上がれない世界でした。
また、義和団事件(北清事変)の対応については、政治家として超一流のものでした。この事件は、清朝が外国支配からの脱却を目指して、テロリストによる反乱に西太后などの政府中枢部が乗っかって各国の外交団などを幽閉したものです。
この時の山縣の対応は実に慎重で、軍事行動に積極的になることも、中国に肩入れすることもなく、諸外国からの要請を受けて初めて本格的な部隊派遣を行っています。
その結果、連合軍の主力となったのに加えて軍紀の良さでも好評を得て、また事後の賠償金分配でも控えめな要求にとどまることで列強からの信頼も得ています。このことは、日本が文明国として西欧諸国に認知される大きなきっかけになりました。
山縣の功罪と「歴史のイフ」よく言われるのは、山縣が政党政治を嫌って民主化を遅れさせたという評価ですが、これもやや誤解に基づいたものだと言えます。何も政党政治に拙速に移行することが絶対的に正しいとは言えません。