明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【後編】~地方自治制度と日本初の総選挙・国会審議~ (2/3ページ)
もともと、国土のうち四分の一は江戸時代の天領・旗本領・寺社領だった上に藩のサイズもバラバラ、その領地も散在していたのです。こんな状態なので、明治時代初期の地方行政は、責任の所在も不明なままで行われていました。
これを少しずつ整理して都道府県と市町村、それに「郡」に分類し、それぞれに近代的な議会を設けさせたのは山県有朋の業績です。
「文明国」としての証を立てるまた山県有朋は、日本の政治史上で二回、内閣を成立させています。第一次山県内閣は1889年末の12月24日、今で言えばクリスマスの日に成立しましたが、この時は第一回の総選挙が差し迫っていました。
山県としては、もちろん国を護り秩序を重んじる「老成着実の人士」たちが多数の議席を占めることを願っています。しかし反政府系の政党・政派(今で言えば野党)も勢いがあり、「藩閥政権打倒による政党内閣樹立」「台糖条約の締結」「政治費用の節減」「民力休養」「言論・出版・集会の自由」を求めていました。
そして選挙の結果は、300議席中174議席を反政府系が占めることになり、政府提出の予算案は第一回帝国議会からさっそく紛糾します。山県は首相として、制度確立・殖産興業・軍備強化が喫緊の課題であることを訴えますが審議は難航。最終的には自由党の土佐派を切り崩して、630万円あまりの削減で議会を通過します。
