江戸開発に大いに貢献!「神様仏様伊奈様」と慕われた伊奈忠次の生涯と功績を紹介【どうする家康】 (3/3ページ)

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各地での検知や新田開発、河川改修を行いました。

特に荒川の川の流れを変える工事で築造した堰は、忠次の官位である備前守になぞられ、備前堤と呼ばれています。

こうした忠次の土木工事の方式は伊奈流と呼ばれ、忠次亡き後も活用されました。また、知行割りも行い、江戸幕府の財政基盤の確立に貢献しました。

ちなみに、忠次のいた武蔵国足立郡は現在、埼玉県北足立郡伊奈町と名付けられており、忠次が町名の由来となっています。

代官頭は関東郡代として存在

徳川秀忠/Wikipediaより

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは小荷駄奉行として活躍しました。

そして、慶長12年(1607)に家康の隠居に伴い、忠次は江戸にいる徳川秀忠の側近くに仕えます。その後の慶長15年(1610)に病死し、61歳で生涯に幕を閉じました。

伊奈家の代官頭は忠次の子孫たちが関東郡代と名を変えて存続していました。

しかし、寛政4年(1792)の改易により、解体しています。

神様仏様と慕われた忠次

忠次は農民に養蚕や製塩といった産業を勧めた他に、桑や麻の栽培方法も教え広めましたそのため、「神様仏様伊奈様」と慕われていましたと言われています。

また、忠次の次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在は谷和原村と合併したため消滅)の町名の由来となっていました。

親子2代で町名の由来になるほど、忠次とその子孫たちが慕われていたことがわかりますね。

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