日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【中編】 (2/4ページ)

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広田弘毅(Wikipediaより)

近衛は状況の打破をめざして慌てて内閣改造を行いますが、軍に毅然とした態度を示せないまま退陣します。

ちなみに、前述の近衛声明はその後も二回出されています。二度目の声明では、日本を盟主として東アジアに大規模な経済圏を作るという内容の「東亜新秩序建設」を発表しました。ここで日中戦争の意味・性格が微妙にずらされたことで、和平の余地ができたと言えるでしょう。

そして三度目の声明では、中国と「善隣友好・共同防共・経済提携」という原則で関係を結ぶことを宣言しましたが、これは結局うまくいきませんでした。

第二次近衛内閣のスタート

第一次内閣退陣後は枢密院議長の職にあった近衛ですが、第二次近衛内閣への期待は相変わらず高く、また彼自身も再登板に向けて新体制運動に取り組んでいました。そしてその後も三つの内閣が短期間で次々に退陣し、また近衛に出番が回ってきます。

近衛は1940(昭和15)年7月22日に、満を持して第二次内閣をスタートさせました。この時陸相に起用されたのが東條英機、外相に起用されたのが松岡洋右です。

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