規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【中編】 (2/4ページ)

Japaaan

永田鉄山(Wikipediaより)

皇道派と統制派は、その主張の違いからかねてより対立しており、陸軍内でも抗争状態にありました。そこで林が、世話になっていた真崎ではなく永田を起用したことで、両派の対立は激化します。

ここから、軍人によるテロが続発して二・二六事件へつながっていくことになります。

ここで重要なのは、かつて林による「越境」が事後承認で認められたことで、「現場の軍人は、合理的な理由があれば政府や軍上層部の意向やルールを無視してもいい」という風潮が湧いていたことです。

軍人たちのこうした意識が、二・二六事件にもつながっていったと言えます。

二・二六事件では運よく命拾い

1935年7月、林は、盟友であり皇道派の首領である真崎甚三郎大将を更迭しました。

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