中世の東北で「平泉」よりも繁栄!「十三湊」を支配した安藤氏の躍進 (2/3ページ)
阿津賀志山合戦(福島県国見町)で安藤一族の者が鎌倉方を手引きしたと『吾妻鏡』に記載されている。さらに鎌倉時代末の史料によると、安藤一族の勢力圏は十三湊を中心に津軽半島から下北半島の沿岸部一帯に及び、源氏に代わって幕府の権力を掌握した執権北条氏によって北奥羽や蝦夷島(北海道)の代官に任じられている。なぜ、そうなったのだろうか。
そもそも幕府の形式上のトップである征夷大将軍はその名の通り「征夷」を実現する必要があり、まだ日本の領域とはいえない北奥羽や蝦夷島はそれを実現するためのもってこいの土地だった。また、蝦夷島は都から遠く離れ、当時、罪人の流刑地としても注目され、実務の上からも管理する必要が生じてきた。ちなみに、それまで「えみし」だった蝦夷を「えぞ」と読んで異民族視していくのは、この頃だといわれる。
ともあれ、幕府の権力を握る北条氏は以上のことを口実に蝦夷や北奥羽の軍事、警察、徴税権を担う地頭となり、その代官に現地の豪族である安藤氏をあてた。
そのことは安藤氏にも富をもたらした。本拠である津軽半島の十三湊が、鮭や昆布などの物産に恵まれた蝦夷島と日本海沿岸などを結ぶ交易の中心地として繁栄するからだ。
こうして北条氏と安藤氏はいわばウィンウィン、共存関係にあったといえるが、蝦夷島で反乱が勃発し、それが北奥羽に飛び火して反乱が拡大した頃から関係がギクシャクする。
安藤季長が代官職として北条氏に反乱鎮圧を命じられながら、なかなか鎮まらず、同じ頃、従兄弟の季久と所領を争う内紛が勃発していた。
その内紛に絡み、北条得宗家(北条宗家のこと)の被官でありながら幕府の権力を握った内管領の長崎高た か資すけが季長と季久の双方から賄賂を受け取り、事態はいっそう紛糾。正中二年(1325)、季長は得宗家の当主だった北条高時に代官職を罷免され、所領を争う季久に与えられたことから幕府への反乱に踏み切ったのだ(安藤氏の乱)。
翌年、鎌倉から追討軍が派遣され、季長は捕縛の上、鎌倉へ連行された。
しかし、それでも反乱は収まらず、季長の被官らが津軽で兵を集めて季久陣営と戦い、反乱の勢いはますます盛んになった。幕府は再び追討軍を派遣。