中世の東北で「平泉」よりも繁栄!「十三湊」を支配した安藤氏の躍進 (3/3ページ)

日刊大衆

嘉暦三年(1328)にようやく反乱は収まった。

 しかし、蝦夷地の騒乱が起きてから一〇年の時を費やし、季長の反乱もなかなか鎮圧できなかったことで幕府の権威は失墜。

 また、得宗家の被官(長崎高資)が二重に賄賂を取るという腐敗ぶりも明らかになった。幕府はこの乱の終息後五年で滅び、『保暦間記』(南北朝時代に成立)は安藤の乱を幕府滅亡の主な要因に挙げている。

 一方、鎌倉時代の末に一族が出羽の秋田湊(秋田市)へ進出し、こうして安藤氏は勢力圏を南へ広げていた。

■「日の本将軍」の称号をなぜ僭称したのか!?

 ところで、乱の主役の一人だった季久(宗季と改名)の玄孫に当たる康季は永享八年(1436)頃、十三湊と日本海交易ルートで繋がる若狭国の羽賀寺(福井県小浜市)の本堂を再建しているが、その際の史料(羽賀寺縁起)に「奥州十三湊日の本将軍安倍康季」と記されている。

 安倍氏は安藤一族のルーツだから、その姓を名乗るのはいいとして、「日の本将軍」の「日の本」は「日本」という国号を想起させるだけに、安藤氏が日本を代表する武官(将軍)と受け取れる。なぜ、安藤氏は「日の本将軍」の称号を僭称したのだろうか。

 諸説あるが、蝦夷島や北奥羽(いわゆる蝦夷地)は、日が昇る東方に位置し、当時から「日の本」と称する認識があったというのが正解だろう。

 前述の「羽賀寺縁起」は後土御門上皇の二五回忌法要が営まれた際に作成されたもの。つまり、天皇家や朝廷も安藤氏が「日の本将軍」と称するのを認めていたといえ、「蝦夷地=日の本」説を裏づけている。

 しかし、日本全体も「日の本」ともいうので紛らわしい限りだが、その「日の本将軍」と号した安藤氏は嘉吉二年(1442)、新興勢力の南部氏との戦いに敗れて蝦夷島へ逃れ、十三湊の栄光とともにその宗家の歴史に幕を下ろすのであった。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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