「関ヶ原の戦い」で一番の功労者は…まさかのあの武将!?本多正信の答えがコチラ【どうする家康 外伝】 (1/3ページ)
時は慶長5年(1600年)10月1日。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成(治部)が、京都六条河原で処刑されました。
その残党らも次々と処刑されて行く中、三成の息子が発見されます。
男性はどれほど幼くても、いつか成長して仇討ちを企まないとも限りません。だから大抵の場合は、赤子にいたるまで殺しておくのが普通でした。
さて、今回は生かすのか殺すのか……果たして「我らが神の君」徳川家康はどうするのでしょうか。
大鋸屑も言えば言わるるもの……家康の苦笑い本多正信(佐渡守)が徳川秀忠(中納言)のお供で、京都二条城へやってきた時のことです。
「佐渡よ。実はそなたに相談があってのぅ」
家康の話をうかがえば、寿性院(妙心寺の塔頭)に石田三成の遺児が匿われていたとのこと。
「此度の一件で、命惜しさに逃げ込んだのではなく、幼少時から出家しておったと言う。また寺の連中も必死に助命嘆願してきておってな……」
これは如何したものか。家康の諮問に、正信はすかさず答申しました。
「それはすぐにもお許しあるべきです。治部(三成)殿はこたび関ヶ原における最大の功労者なれば、そのご遺児の生命をお助けするのは当然にございます」
石田三成が最大の功労者?関ヶ原では敵も敵の首謀者だったであろうに、正信は何を言っているんだ……家康はいぶかしみました。
「その意(こころ)は?」家康の問いに、正信は答えます。
「こたび治部めが妄想に駆られて兵を挙げてくれなければ、殿が勝つことはできず、天下の政権を握ることも叶わなかったのです」
確かに、戦いが始まらなければ勝ちも負けもありません。もし三成たちが挙兵しなければ、そのまま平穏無事に豊臣家の天下が続いていたことでしょう。