徳川家に代々仕え忠義を尽くした「勝(すぐろ)一族」三方ヶ原合戦では武田軍を相手に奮戦【どうする家康 外伝】 (2/5ページ)
勝 寛永系図訓すゞろ
今の呈譜に、師輔の後裔本多右馬允助定 按ずるに兼通流 が末孫なりといふ。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
この『寛政重修諸家譜』では系図が勝重信から始まっているので、せっかくだから重信の代から紹介していきましょう。
初代・勝重信(六郎左衛門)●重信
六郎左衛門先祖より累代御家人たり。重信は清康君広忠卿につかへたてまつる。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千九十三 藤原氏(支流)勝
【意訳】先祖代々、松平家臣でした。重信は松平清康(家康の祖父)・松平広忠(家康の父)2代に仕えています。
他に詳しい事績が紹介されていませんが、松平家の勃興(清康)と没落(広忠)をまじまじと見届けたことでしょう。
二代目・勝重久(安右衛門)
●重久
安右衛門 與一郎 母は某氏。広忠卿をよび東照宮に歴仕し、上野城を攻給ふの時先登し、また鎗下の高名あり。大場にをいて矢にあたり、創をかうぶる。元亀三年三方原合戦のとき敵と太刀打し、錣をかけてかの兵をとる。御帰陣ののち仰によりて其帯せし所の吉房の刀を献ぜしかば、永楽銭十貫文をたまふ。その後本多作左衛門重次が手に属し、某年死す。年七十。
今の呈譜、慶長十三年死す。年七十三。法名栄喜。