明治新政府の「欧化政策の象徴」!鹿鳴館はなぜ8年で終わったのか (2/3ページ)

日刊大衆

 中国が欧米先進国に半植民化されるきっかけとなったのがアヘン戦争だったため、旧幕時代からアヘンへの抵抗感が強かった。

 それだけに世間の関心も高い事件だったが、不平等条約でハルトレーに治外法権(外国人が滞在する国の法律や裁判に服さない権利)が認められたため、この問題を日本の裁判所が裁けず、代わって、在留外国人を対象とする横浜の領事法廷は「アヘンは、あくまで薬用として輸入した」というハルトレーの主張を認めて、無罪判決を言い渡したのだ。

 これに世論は沸騰し、治外法権を撤廃すべきだという機運が一気に高まった。そのために、欧化政策は必要だと認識しつつも、舞踏会のような西洋の真似事に対する生理的な嫌悪感は強く、鹿鳴館オープン当時から、この問題をはらんでいたのだ。

 このあとも鹿鳴館と条約改正問題は絡み合いながら、時代が進んでいくことになる。

 一方、当時、政府高官婦人といえどもダンスの経験がなく、外国人の指導を受けて、なんとか舞踏会に出席したものの、妙齢のご婦人ばかり。

 あるイギリス人は舞踏会に出る女性が、このように「老婦人」ばかりであることに驚き、西洋で舞踏会というと「若き婦人の専有」であるのに対し、このような不釣り合いを放置したままだと「西洋の仲間入りは覚束ない」という投書が新聞社に寄せられたほどだ。そこで政府は、女子師範学校の生徒や芸者を舞踏会に動員するようになる。

 ところで、当時、鹿鳴館建設の旗振り役だった外務卿・井上馨は明治一八年(1885)の内閣制度発足によって初代外務大臣に就いていた。

 その外務大臣任期中の明治一九年(1886)から翌年の七月にかけ、井上は欧米各国の代表を集めて条約改正のための会議を計二七回にわたって開催。この「条約改正会議」が鹿鳴館の寿命を縮めることになったのだ。

■旗振り役の失脚に伴い鹿鳴館の時代も終焉!

 会議では、イギリスとドイツの両公使から提出された案を叩き台に討議された。改正の焦点は四つ。第一は関税の税率を若干引き上げることで、これは日本側も納得できる内容だった。

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